最近ようやくJimdoも携帯からブログをアップできるようになって、赤ちゃん抱っこしたままでも更新できるので、隙間時間にチョコチョコ更新ができるようになりました。
便利!
今日は久しぶりにPCからの投稿です。
写真は去年夏のバカンスの時のもの。
ウンブリア州からマルモレの滝を見たりした後、アブルッツォ州に入りました。
大きな地震があったラクイラなども見て、山登りへ。
私はすっかり夏の山の虜なので、バカンスなら山がいい!と主張してこうなりました。
育児してて気付いたことがあるので、忘備録的に書いておこうと思います。
Twitterだと流れて消えてしまうので。
どの赤ちゃんも一緒だと思うけど、我が家のヒナは私の姿が見えなくなったら途端に泣きだしたりします。
視界からは消えたけどすぐそこにいるはずだ、とかそういうことは思わないみたい。
で、思ったんだけど、月齢の低い赤ちゃんにとって、「見えているかどうか」は「存在しているかどうか」に匹敵してるのかもって。
だから私が死角に入っただけで「いなくなった」と思って泣くし、いないいないばあは魔術師が人を消したり出したりしてるくらいの効果を発揮する。
観察してるとどうも赤ちゃんは五感で対象がこの世に「存在する・しない」を決めているぽい。
今、見えている場所以外にも世界があって、そっちに存在している、というのは理解できない。
で、思ったの。
たぶん赤ちゃんにとっての、この「見えている=存在している=安心」という構図は、私たち大人にとってはたとえば「雨の日も雲の上には太陽があるんだよ」と言われてもその瞬間は実感として太陽を感じられない、というのに近いのかもなって。
(五感で存在の有無を決めると言ってもその中にも優劣があって、見えてても触れなきゃ安心できなかったり、声だけじゃ不安を拭えない時もある。声がすれば平気でニコニコしてる時もある。
なんかそのへんは、遠距離恋愛中のカップルが電話で声を聞けて幸せを感じる時もあれば、ビデオチャットしても寂しさが募る時もある、そんなのに似てる)
赤ちゃんにとって、見えないけどお母さんは隣の部屋にいるんだよ、というのはほぼ理解できてない模様。
それって…
死んでしまった人が「あの世」に「いる」としても、私たちはそれを「=存在してる」と定義できないのにも似てる…。
今は「あの世」にいるけどまたいつか会えると言われても、あの世は私たちにはあまりに遠く、「いつか」はあまりに不確定で、悲しくなる。
赤ちゃんにとって「見えない場所にいる母」はそのくらい遠く、不確定で悲しくなっちゃうものなんだろうなぁって。
そりゃ、泣いちゃうわ。
当たり前だわ。
…というようなことを、胃腸風邪を引いて下痢に苦しんでる時、トイレの中で、部屋で泣き叫んで私を呼ぶヒナちゃんの声を聞きながら思いました。
母はトイレにいるのだよ。お腹が痛いのだよ。
君の気持ちはわかった!けど、お願いちょっと待ってて〜(>_<)
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